レクシプローラの英語放浪ブログ

あなたの英語の「わからない」と「なぜ」に答える英語学習ブログです。

「日本人は英語を話せない!」という問題意識について思うこと。

日本人が英語を話せないのはなぜか

 

といった具合に、日本人と英語についての問題を論じるものを幾度となく目にしてきました。私が英語教育について大学で学んでいたからというのもあるでしょう。別に私もペラペラ話せるわけではない(自分はペラペラ話せると思っていない)し、この「話せない」がどこまでの範囲を示すのかはわかりませんが、個人的には「話せない」側にいると思っています。ただ、この「話せない」が悪だと、一部の英語学習者は考えています。いや、英語教育の分野で研究している教授ですらも。まあ、最近の文部科学省も授業はオールイングリッシュでやろうぜって感じですし、そういう気持ちになるのも無理はないでしょう。

 

私は、日本人が英語を話せないのは、今まで英語を話す必要がなく、なんならこれからも話せなくてよさそうだからだと考えています。つまりは、「英語が必要である」という焦燥感に、まったく迫られなくてよい環境が日本であるということ、そしてその環境の中にいるのが私たち日本人だということです。

 

もう何年も、下手すれば数十年前から、「グローバル化」という言葉が使われて、異なる価値観を認め合おうという考え方が、国境を越えて広く浸透しつつあります。その異文化を知る手段の1つとして、他言語を学ぶことが挙げられるわけですが、その学んだ他言語を使うのは、

 

①日本人がほかの文化圏に所属する場合、

②他文化圏から日本の文化圏に入る場合

 

です。①は日本人目線、②は外国人の目線ですね。先述した議題である「日本人は英語を話せない」とは、見たところ①の側面を見えない前提とするものが多いように感じます。というのも、グローバル化というワードから、我々日本人が、異国の人々とコミュニケーションをとらなければならない場合があって、こちらが話せる能力を持たねばならないということを考えがちなのですが、これは①のように、他文化圏に対して、足を踏み入れることを前提として語られているのです。確かに、現在では東京なんかが格好の例かと思いますが、街を歩けば外国人に会う機会も多いでしょう。特にコンビニなんかは、今は店員ほぼ全員は外国人ですから。ただこれは②の例であって、彼らは日本にいる以上、日本のオフィシャルな言語、つまり日本語を話すのが筋です。よって、「外国人」とされる彼らは、たとえ拙くとも、英語ではなく日本語でのコミュニケーションを試みます。つまり、①の状況になんてほとんどならないのに、①の状況を今の世の中の状態であるかのように、ずれた形での議論が進んでしまっているのです。②の状態であれば、我々が英語を話せる必要は全くありません。

 

さて、次に情報にアクセスする場合の「英語」についても話します。一説では、インターネット上に存在する情報のうち6割が英語で、日本語で書かれた情報はたった3%程度だそうです。なにかについて知ろうとするとき、我々は「英語」というツールなしでは、欲しい情報にフルにアクセスすることが難しいのです。翻訳を使えばいいだろうという意見もあるでしょうが、英語と日本語というのは、たとえ同じことを表そうとしても、「訳」によって「意味」が必ずしも対応するわけではありません。例えば、日本語で「愛してる」というと、まず使わないし、使っても恋人に対してですが、I love youになると、家族や友人に対してなど、もっとフランクに、カジュアルに使えます。こんな例が、ほぼ無限にあるのです。

よって、英語を見聞きして英語を理解するスキルがあればたいていのことは、十二分に情報を享受できるわけです。さて、「日本人は英語が話せない!」とスピーキングの能力の低さばかりに焦点が当てられがちですが、どうやらリーディングのスキルは他国に比べてそれなりに高いようなんです。逆にスピーキングに強い国は、リーディングに弱かったりもします。少なくとも、そこそこの数の日本人が、英語を読む能力について言えば、若干のアドバンテージを持っている状態です。これは皮肉にも、文法訳読式と情報処理ばかりをやり続けた日本の英語教育の産物ともいえるでしょう。

 

情報にアクセスするときは「読むこと」がメインになります。よって、日本人は「読んで」情報を集める分には、おおよそ困りません。まあ最悪の場合は翻訳すればよいですし。となると、英語を話す「必要性」はあまり感じませんね。

 

まとめると、英語を話す必要性はそこまで高くありません。それなのに、それをできないことに対して咎めるのは、いささかお門違いに感じます。日本は「英語を話せない国」なのではなく、「英語を話せなくていい国」というだけなのではないでしょうか。そんな環境の中で英語を勉強し続ける人がもしいるなら、いうまでもなく私含め、狂人です。それだけ特異なものなので、たかがTOEICが高得点なだけで、とてつもない付加価値が付くのです。英語を話せるようになるのは、もう趣味とかそのあたりの領域です。一般の人生には、おそらく「必要」ではないのでしょう。もちろん、話せた方が絶対に良いですよ。

 

教育について功利主義的な批判をするのは好きではないのですが、ちょっと思うことがあったので書いてみました。皆さんはこうした問題意識をどう感じますか。